2009年09月21日

リヒャルト・シルマンとは?

リヒァルト・シルマンの一生

 1874年(明治5年)5月15日に生まれます。父は、教師。彼は、学校で遊びながら大きくなりました。13歳の時、リヒァルトは、アイゼンベルクの学校に通いました。祖父が校長の学校でした。17歳の時、ケーニスベルクの近くにある師範学校に通い、地理の先生(フィッシャー先生)の徒歩旅行した時の経験をもとに進められた授業を受け、エルツ山脈までの徒歩修学旅行を体験。このたった一回の徒歩旅行が、シルマンに強いショックを与えます。この徒歩旅行にうけたショックのために、デモが起こり、シルマンは、デモの張本人とされて放校処分となります。

 その後、ドレベナウの地主(貴族)の家庭教師になり、10人の子供の面倒をみることになり、学習計画の作成も全くの彼の自由にまかされます。教員資格の勉強をコツコツと行きました。そして、一年後(1895年。明治27年)。教員認可試験に合格。

 1895年5月。マスリアの小学校の先生に任命されます。マスリアはプロシアの一部で、人びとはスラブ方言を使っていました。生徒60人中、ドイツ語を話すのはわずか4人。全く言葉が通じないために、郊外に出て、子供たちと一緒に遊び、歌をうたい、ある時は、ドイツ語の授業、ある時は算数の授業を行いました。自然物の全てが教材であり、全てが教科書であり、全てが教室でした。この時の体験が、シルマンの基本的な考えとなり、ワンデルンシューレ(移動教室)を思いつきます。そして、このワンデルンシューレ(移動教室)からユースホステル運動を発想します。


ユースホステル運動

 1901年。シルマン、27歳の時に、ルール地方の中心地ゲルゼンキルヒュンで教職につきました。シルマンは、公害の巣窟である都市にすむ子供たちに、ラインを流れる機械の部品のように学校という工場で量産されつつある子供たちに、ワンデルンデ・シュールを実行しました。しかし、一つ問題がありました。当時は、適当な宿泊施設がありませんでした。そのためシルマンは、宿泊所の確保に四苦八苦しました。あちこちに無料の宿泊施設の提供を求めて手紙を書きました。

 1909年の夏、シルマンは、アルテナを始点にライン川沿いにアーヘンの丘陵地帯を抜ける8泊徒歩旅行を計画しました。第一日目、一行は納屋に泊まりました。そこは、とても快適で、農家の主人の親切な心くばりで毛布までも用意され、プラムに新鮮なミルクまで出されたのでした。第二日目。8月26日。一行は、風雨の激しい最中、ブレール・バリィにたどりつき、シルマンは、農家に納屋を利用させてくれるよう頼みましたが、その家の主人は、協力をことわりました。シルマンと子供たちは、村の学校をたずね、ようやく先生の奥さんの許可を得て、そこに泊まることができました。その時、

「ドイツ国中の学校が、宿舎(ホステル)として提供されれば、こんな危険な目にあわなくてすみます。子供たちのために、安全で簡素で格安なユースホステルを作れます!」

と発想し、この発想が元となって、ユースホステル運動が始まります。ちなみに8月26日、シルマンデーとして世界中のユースホステル関係者が御祝いをする日となっています。


ウィルヘルム・ミュンカーとの出会い

 1910年7月4日。リヒャルト・シルマンは、北部ライン山岳協会の総会の席上で北部ライン全域に小学生用ホステルを建設する案を、北部ライン山岳協会の年次総会に提出。しかし提案は、否決されてしまいました。次期総会においても否決されました。しかし、この提案に感動したウィルヘルム・ミュンカーは、精力的にシルマンをバックアップするようになり、ミュンカーはドイツユースホステル協会の事務局長になり、シルマンと共にユースホステル運動に生涯を捧げることとなります。

 しかし、第一次世界大戦勃発によって、二人とも兵隊にとられます。しかし、二人は戦場からユースホステル運動を立ち上げます。そのために第一次大戦の敗戦にもかかわらず、戦後にユースホステル運動は急成長します。しかし、戦後のインフレで全てを失ってしまいます。それを再興させたのは、ミュンカーの友情によるところが大きいです。その結果、ドイツユースホステル運動は全盛時代を迎えますが、1933年のヒトラーの政権奪取によって、シルマンとミュンカーは、ドイツユースホステル協会を追放されます。ミュンカーは引退し、ザウワーランド山岳協会の仕事に戻ります。ドイツユースホステル協会は、ヒトラーユーゲントに吸収されました。



孤独な戦いと復活

ドイツユースホステル協会を追放されたシルマンですが、国際ユースホステル連盟は、シルマンを会長に指名しました。シルマンは、自由主義諸国の砦となり、ナチスの協会と国際ユースホステル連盟の攻撃からユースホステル運動を守る側となりましたが、ナチスの様々な嫌がらせが続き、最後にはパスポートの発行を拒否され、国際会議に出られなくなり、ついには引退します。やがて第二次大戦が始まり、ヒトラーユーゲントに吸収されたナチス協会は壊滅します。

 第二次大戦が終わり、1945年に国際ユースホステル連盟が復活する時に、シルマンとミュンカーはオブザーバーとして招待されました。ドイツ人として、戦後はじめて海外旅行を許された人間でした。彼は、アメリカユースホステル協会創設者のモンロースミスと共に、チャーターした飛行機に乗って世界中のユースホステル関係者に温かく迎えられます。ちなみにアメリカユースホステル協会会長は、ユダヤ人のロックフェラー三世です。この時、シルマンの年齢は70歳でした。1961年12月、かぜをこじらせて死亡。86歳でした。

posted by ss at 23:19| リヒャルト・シルマンの一生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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