2009年11月28日

リヒャルト・シルマン

リヒャルト・シルマンについて

ドイツの学校の先生です。
ユースホステルをつくり、
小学生たちを徒歩旅行につれていきました。
詳しくは、こちらをどうぞ

http://shiruman.net/
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2009年09月27日

リヒャルト・シルマン年表

リヒャルト・シルマン年表

明治7年 1874 0歳 東プロイセンのハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトにシルマンが生まれる。

明治13年 1880 6歳 シルマンの父(アウグスト・シルマン)が経営する民衆学校(小学校)に入学。

明治20年 1887 13歳 アイゼンベルクの祖父の学校(zweiklassigen Schule)に入学。

明治22年 1889 15歳 オーテルスブルグのフリードリヒス村の予備校に通う

明治24年 1891 17歳 ヴァルダウ師範学校に入学

明治25年 1892 18歳 ヴァルダウ師範学校の修学旅行でリーゼンゲビルゲ地方に徒歩旅行

明治26年 1893 19歳 ヴァルダウ師範学校を退学。サムランドで家庭教師を行う。

明治28年 1895 21歳 カラレネの師範学校で教員検定試験をうけて合格。ロエッツェン郡のケーニヒスへーエにあるポーランド人の教会学校に奉職。

明治31年 1898 24歳 プロイセン・アイラウ郡のシュロムベーネン校に転任

明治34年 1901 27歳 ルール地方の中心地ゲルゼンキルへンに転任。

明治35年 1902 28歳 この頃、ザウワーランド山岳協会(SGV)にシルマンが入会する。

明治36年 1903 29歳 アルテナのラーメデ地区に転任。

明治38年 1905 31歳 アルテナのネッテの学校に転任。

明治39年 1906 32歳 ザウワーランド山岳協会(SGV)のフィンネントロップの道標整備委員会の会合でウィルヘルム・ミュンカーと出会う。

明治42年 1909 35歳 シルマンデー(ユースホステル誕生の日)の事件がおきる。『青少年の旅と私が約束できること(一九〇九年)』」という論文を発表。各地の教職員新聞に論文を投稿するが全てボツとなる。

明治43年 1910 36歳 シルマン、ザウワーランド山岳協会(SGV)にユースホステルのための資金援助を提案するも否決される。ミュンカーとシルマンは、この件で意気投合する。ケルニッシェ・ツァイトング紙にシルマンの記事が掲載。第二の論文、「民衆学校のホステル」を発表。プロシアの体操教師連盟で講演。

明治44年 1911 37歳 ドレスデンで行われた第一回「青少年の日」の講演を行う。

大正元年 1912 38歳 ハイデルベルグの大会で、シルマンの案が採択される。ザウワーランド山岳協会(SGV)がユースホステルのための特別委員会をつくる。『民衆学校のホステル』から『ユースホステル(ドイツ語でユーゲントヘルベルゲ)』に変更。ゴルツ元帥が指導する「青少年ドイツ連合」がユースホステル活動に参加。初めてドイツユースホステル・ハンドブック(掲載百四十カ所)を出版。アルテナに世界最初のユースホステルが生まれ

大正2年 1913 39歳 三百一町村にユースホステルを開設。全ドイツ、五百三十五カ所にユースホステルを開設。

大正3年 1914 40歳 シュトットガルトで開催の連邦会議で行われたシルマンの講演は、嵐のような拍手と歓声をもって迎えられた。ザウワーランド山岳協会(SGV)のユースホステル特別委員会を解散。山岳協会から離れて自主的な組織を作り、組織名をドイツユースホステル本部とする。第一次大戦勃発、シルマンは招集され、軍務で大活躍し前戦兵勲功章を受賞。クリスマス休暇事件が発生。

大正4年 1915 41歳 シルマン、下士官に昇格。

大正7年 1918 44歳 第一次大戦、終了。シルマン復員。

大正8年 1919 45歳 パリ講和会議。ミュンカー復員。ドイツユースホステル協会の事務局長に専念することにする。ドイツユースホステル中央委員会設立。全ドイツに七百軒ものユースホステルがオープン。

大正9年 1920 46歳 国ユースホステル七百カ所の住所を載せたハンドブックと、機関誌を出版。シルマン、ミュンカーの手配で民衆学校の雑務から解放される。

大正11年 1922 48歳 狂乱インフレで、ドイツユースホステル協会の財産が紙くずになってしまう。

大正13年 1924 50歳 シルマン、子供村の発想を思いつく。

大正14年 1925 51歳 子供村スタート

昭和元年 1926 52歳 シルマン、ザウワーランド山岳協会の会長を辞任。

昭和4年 1929 55歳 世界恐慌がおこる。

昭和6年 1931 57歳 蘭、英、スコットランドの各ユースホステル協会の書記長がシルマンとミュンカーに面会を求めてくる。

昭和7年 1932 58歳 恐慌のために子供村は閉鎖。第一回国際ユースホステル会議が、アムステルダムYMCAホテルで開催。

昭和8年 1933 59歳 ドイツ議会は、ヒトラー首相への全権委任を決定。ナチスが、ドイツユースホステル協会を乗っ取る。ミュンカー、ドイツユースホステル協会を辞任。ナチス主導で第二回国際会議をドイツ・ゴーデスベルクで開催。合衆国よりのモンロー・スミス夫妻が出席。

昭和9年 1934 60歳 第三回国際会議開催(イングランド)。副会長に、英のJ.キャッチプールが就任。シルマン、ナチスのヨハネス・ロダツをレスリングで子供扱いにする。

昭和10年 1935 61歳 第四回国際会議開催(ポーランドのクラコフ)。シルマン、アメリカユースホステル協会の招待によってアメリカ視察。帰国後、シルマンは、ナチスの弾圧によってアルテナ城ユースホステルの責任者から外され、生活に困窮する。

昭和11年 1936 62歳 第五回国際会議開催(デンマーク)。ナチスによって議題は紛糾する。

昭和12年 1937 63歳 シーラッハに国際ユースホステル連盟会長の地位を退くよう命じられる。ナチスは、シルマンのパスポートを取り上げて、ドイツ国外へ出られないようにする。シルマンをアルテナ城から追放。シルマンの全ドイツのユースホステルヘの立入を禁止。シルマン、ヒルーグレーベンビースバッハ村で、恩給と自家菜園を作ることで生計をたる。

昭和13年 1938 64歳 第七回国際会議(スイス)で、シルマンが提唱した国際ラリーが開かれる。

昭和14年 1939 65歳 第二次大戦勃発

昭和19年 1944 70歳 アルテナ城で、シルマン七十歳の誕生会を開催。

昭和20年 1945 71歳 第二次大戦終わる。ミュンカー、「報道第一号」をヒルヘンバッハから、全国のユースホステル運動関係者に急送。

昭和21年 1946 72歳 モンロー・スミス夫妻がドイツに到着、シルマンを連れて占領軍の説得を行う。第8回国際会議(スコットランド)、シルマンとミュンカーがオブザーバーとして参加。ドイツ協会の加盟は却下。

昭和22年 1947 73歳 第9回国際会議(オランダ)。ドイツ協会の加盟は却下。

昭和23年 1948 74歳 第10回国際会議(アイルランド)。ドイツ協会の加盟は却下。

昭和24年 1949 75歳 第11回国際会議(デンマーク)。ドイツ協会の加盟は却下。アルテナ城において、正式に認可されたドイツユースホステル協会が発足。シルマン、ミュンカー、ドイツユースホステル協会より引退。

昭和25年 1950 76歳 第12回国際会議(イングランド)。ドイツユースホステル協会の加盟が認められる。

昭和26年 1951 77歳 日本ユースホステル協会設立。

昭和29年 1954 80歳 第15回国際会議(ザール地方)で開催。日本から横山氏が参加。日本ユースホステル協会の加盟が認められる。

昭和34年 1959 85歳 第20回国際会議(ドイツ)ユースホステル運動の誕生50周年を記念してドイツのアルテナ城で開催。

昭和36年 1961 87歳 シルマン、八十七歳の長寿を全うする。

昭和45年 1970 ミュンカー、九十六歳の長寿を全うする。

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2009年09月21日

リヒャルト・シルマンとは?

リヒァルト・シルマンの一生

 1874年(明治5年)5月15日に生まれます。父は、教師。彼は、学校で遊びながら大きくなりました。13歳の時、リヒァルトは、アイゼンベルクの学校に通いました。祖父が校長の学校でした。17歳の時、ケーニスベルクの近くにある師範学校に通い、地理の先生(フィッシャー先生)の徒歩旅行した時の経験をもとに進められた授業を受け、エルツ山脈までの徒歩修学旅行を体験。このたった一回の徒歩旅行が、シルマンに強いショックを与えます。この徒歩旅行にうけたショックのために、デモが起こり、シルマンは、デモの張本人とされて放校処分となります。

 その後、ドレベナウの地主(貴族)の家庭教師になり、10人の子供の面倒をみることになり、学習計画の作成も全くの彼の自由にまかされます。教員資格の勉強をコツコツと行きました。そして、一年後(1895年。明治27年)。教員認可試験に合格。

 1895年5月。マスリアの小学校の先生に任命されます。マスリアはプロシアの一部で、人びとはスラブ方言を使っていました。生徒60人中、ドイツ語を話すのはわずか4人。全く言葉が通じないために、郊外に出て、子供たちと一緒に遊び、歌をうたい、ある時は、ドイツ語の授業、ある時は算数の授業を行いました。自然物の全てが教材であり、全てが教科書であり、全てが教室でした。この時の体験が、シルマンの基本的な考えとなり、ワンデルンシューレ(移動教室)を思いつきます。そして、このワンデルンシューレ(移動教室)からユースホステル運動を発想します。


ユースホステル運動

 1901年。シルマン、27歳の時に、ルール地方の中心地ゲルゼンキルヒュンで教職につきました。シルマンは、公害の巣窟である都市にすむ子供たちに、ラインを流れる機械の部品のように学校という工場で量産されつつある子供たちに、ワンデルンデ・シュールを実行しました。しかし、一つ問題がありました。当時は、適当な宿泊施設がありませんでした。そのためシルマンは、宿泊所の確保に四苦八苦しました。あちこちに無料の宿泊施設の提供を求めて手紙を書きました。

 1909年の夏、シルマンは、アルテナを始点にライン川沿いにアーヘンの丘陵地帯を抜ける8泊徒歩旅行を計画しました。第一日目、一行は納屋に泊まりました。そこは、とても快適で、農家の主人の親切な心くばりで毛布までも用意され、プラムに新鮮なミルクまで出されたのでした。第二日目。8月26日。一行は、風雨の激しい最中、ブレール・バリィにたどりつき、シルマンは、農家に納屋を利用させてくれるよう頼みましたが、その家の主人は、協力をことわりました。シルマンと子供たちは、村の学校をたずね、ようやく先生の奥さんの許可を得て、そこに泊まることができました。その時、

「ドイツ国中の学校が、宿舎(ホステル)として提供されれば、こんな危険な目にあわなくてすみます。子供たちのために、安全で簡素で格安なユースホステルを作れます!」

と発想し、この発想が元となって、ユースホステル運動が始まります。ちなみに8月26日、シルマンデーとして世界中のユースホステル関係者が御祝いをする日となっています。


ウィルヘルム・ミュンカーとの出会い

 1910年7月4日。リヒャルト・シルマンは、北部ライン山岳協会の総会の席上で北部ライン全域に小学生用ホステルを建設する案を、北部ライン山岳協会の年次総会に提出。しかし提案は、否決されてしまいました。次期総会においても否決されました。しかし、この提案に感動したウィルヘルム・ミュンカーは、精力的にシルマンをバックアップするようになり、ミュンカーはドイツユースホステル協会の事務局長になり、シルマンと共にユースホステル運動に生涯を捧げることとなります。

 しかし、第一次世界大戦勃発によって、二人とも兵隊にとられます。しかし、二人は戦場からユースホステル運動を立ち上げます。そのために第一次大戦の敗戦にもかかわらず、戦後にユースホステル運動は急成長します。しかし、戦後のインフレで全てを失ってしまいます。それを再興させたのは、ミュンカーの友情によるところが大きいです。その結果、ドイツユースホステル運動は全盛時代を迎えますが、1933年のヒトラーの政権奪取によって、シルマンとミュンカーは、ドイツユースホステル協会を追放されます。ミュンカーは引退し、ザウワーランド山岳協会の仕事に戻ります。ドイツユースホステル協会は、ヒトラーユーゲントに吸収されました。



孤独な戦いと復活

ドイツユースホステル協会を追放されたシルマンですが、国際ユースホステル連盟は、シルマンを会長に指名しました。シルマンは、自由主義諸国の砦となり、ナチスの協会と国際ユースホステル連盟の攻撃からユースホステル運動を守る側となりましたが、ナチスの様々な嫌がらせが続き、最後にはパスポートの発行を拒否され、国際会議に出られなくなり、ついには引退します。やがて第二次大戦が始まり、ヒトラーユーゲントに吸収されたナチス協会は壊滅します。

 第二次大戦が終わり、1945年に国際ユースホステル連盟が復活する時に、シルマンとミュンカーはオブザーバーとして招待されました。ドイツ人として、戦後はじめて海外旅行を許された人間でした。彼は、アメリカユースホステル協会創設者のモンロースミスと共に、チャーターした飛行機に乗って世界中のユースホステル関係者に温かく迎えられます。ちなみにアメリカユースホステル協会会長は、ユダヤ人のロックフェラー三世です。この時、シルマンの年齢は70歳でした。1961年12月、かぜをこじらせて死亡。86歳でした。

posted by ss at 23:19| リヒャルト・シルマンの一生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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